過激なタイトルなので、伏字にしました(笑)
「理屈はあとだ、みんな死ね」
この言葉を目にした時は衝撃的でした。
今でも、たまに思い出す言葉です。
20代の頃の私は、60年代後期から70年代の音楽や文化、ファッションなどが大好きで、体験していないその時代を追い求めて過ごしていました。
そんな20代の頃に憧れていた女性のひとりに、作家でポルノ女優の鈴木いづみ(故人)がいました。
アンニュイで、かっこいい、ぶっ飛んだ人という印象。(ぶっ飛んだ人好きw)
彼女の世界を知りたくて、本を片っ端から読み漁りました。
今の私が読むと、共感できなくなってしまった部分も幾つかあるけど・・・
彼女のカラッとしたドライな文体は好き◎
改めて、スゴイなと感じる言葉もいっぱいあります。
いまの世の中だと、何かにつけて過剰はダサイと思われてるけど(たとえば感情エネルギーの少ないほうが、対人関係で得であるというような)、それは、マチガイだと思う。
感情はとても大切なもので、理性が気づく前に(データがそろう前に)インチキやマヤカシを見抜く力がある。
あたりまえだが、時間は死にむかっておそろしいはやさでおちていくのだ。
一瞬一瞬は、回復不能なのだ。
とりかえしのつかないことの連続の、そのまっただなかに投げだされているのに、ふだんはだれも気づかない。
やりたいことをやればいい、とわたしはいった。
走ったあとでかんがえたって、かまわないのだから。
負の方向から考えるからいけないのだ。
何かを失ったのなら、はじめから手に入らなかったよりはまし、と考えたい。
たいていの人間は、自分の行為に理由をみつけたがる。
わたしもそのクチだから、後家のがんばりそのままに、「ひとはなんの理由も目的もなく生きて行動するのだ」とおもいこんでいる。
理屈づけをきらうあまり、なるべく理由のない行為をしよう、という倒錯におちいる。
もちろん、理由なんかなくてもかまわない。目的意識も。
行為自体が理由であり目的であるはずなのだから。
しかし、それ自体が理由であり目的である、というような単純明快な生き方をしているひとは少ない。
「・・・のために」「・・・だから」というアップ・ビートのひとびとをみていると
「理屈はあとだ、みんな死ね」と叫びたくなってくる。
※以上、いづみ語録より引用
私たちは、理屈が優先しがち。
裏づけを欲しがる・・・
今の自分がこうなのは、〇〇があったから。〇〇のせいだから。
といった具合に原因探しをして、ある意味、開き直りというか被害者意識のようなものが垣間見えることがあります。
子供の頃ってそうだったかな?
理屈抜きに、泣いたり怒ったり、喜んだり・・・まっすぐに表現していたんじゃないかな。
思考や、計算の余地なんてなくて、純粋な気持ちだけじゃなかったっけ?
そんなピュアなエネルギーを取り戻したら、
もっと幸せに豊かになっていくしかないし、自分を生きるしかない
と思います。
「理屈はあとだ、みんな死ね」
そこまで私は思わないけれど・・・(笑)
ひとまず理屈は置いといて、自分の本当の気持ちに向き合ってみませんか?
たとえ乱暴な言葉でも、生きた言葉じゃないと心には響かないよね。
いくら良い言葉でも、魂がこもってなければ心は動かないものだよね。
もなむの言葉は、乱暴な時もあるよね(爆)
僕もグサリとくる事あるけど、真意はわかってるつもり。
傷つけようとか、否定してるんじゃない事はわかるよ。
オブラートに包まないで、つい本質を突いてしまう事があるのは自覚してる・・・。
ビックリして、相手が固まっちゃう事もあるね。
これでも気をつけてるつもりだけど・・・それも個性だと思ってる部分はある(爆)